【ウクライナ】キューバ革命で米国に避難した少女の生の体験談を聞いた話

こんにちは、ふうちゃんです!

連日、ウクライナから避難する人々をテレビで見かけます。

突然、30年以上も前の出来事を思い出しました。

 

東京に滞在する外国の方に賃貸物件を紹介する会社に

勤めていた時の事です。 営業がすべて出払っており

ピンチヒッターで1件だけという事で事務職の私が案内することに^^;

 

豪邸の女主人はキューバ革命で避難した少女だった!

高額の物件しか扱っていない会社でした。

月額の賃料が80万~200万ぐらいがメインで、ほとんどが法人契約です。

稀に月額500万円の一戸建などもありました。

 

お客様をお連れした物件は、東京都港区にある一戸建で

4LDK+メイドルーム付でおよそ350㎡ぐらいだったと

記憶しています。

 

日本の一般的なサイズではありません、完全に外国仕様です。

バス3か所、トイレ4カ所+メイドルームにもバストイレ付

家賃は月額180万ぐらいだったと記憶しています。

 

女主人はアメリカ人と聞いており

外資系日本支社の多分トップの奥様でした。

日本での赴任が終わり、近々米国に帰ると聞いていました。

 

一通り、室内の見学が終わり帰ろうとした時に

彼女がコーヒーを入れてくれました。

5月頃の良く晴れた気持ちのよい日でした。

 

期せずして、お客様1人(男性)と私と彼女の3人で

テラスでお茶をいただくことになり

彼女が突然に、自分がキューバ革命の難民だったことや

東京の大学生について文句を言い始めました。

 

当時はバブルの終わり頃で、まだ日本全体が浮かれていました。

私でさえも、当時の大学生はディスコなどで踊ったり

飲んだり、遊んでばかりいるとの印象がありました。

 

彼女が言うには、キューバ革命の難民だった:

  • キューバは悲惨な状態で、16歳の時に命からがら逃げて来た。
  • 米国の空港に着いた時には、ポケットには数十セントしかなかった。
  • 新聞配達をしながら大学に行き、とても苦労して大学を卒業した。
  • 日本の大学生ときたら、不甲斐ないとか
  • 何のために勉強しているのか、などなど^^;

 

耳が痛かったが、もっともだと思い

とても恥ずかしかった。

 

言われた時は、慣れない仕事中だったし

お客様も一緒だったので、何とかやり過ごす事しか

考えられなかった。

 

話を聞いた、その時よりも

時間がたってから、何度も思い返し

凄い話だったなぁと心に残りました。

 

なかなか、直接話を聞く機会などないと思うし

貴重な経験だったと思ったので、長く記憶に残り

未だに、彼女が着ていた洋服まで思い出します。

 

お客様の男性は、外国の方だったと

かろうじて覚えているだけなのに(笑)

 

キューバ革命

時期: 1953年7月26日~1959年1月1日

キューバ革命:

フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となってアメリカ合衆国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒するに至った武装解放闘争の事を指す。映画化もされており有名

結果: バティスタ政権が崩壊、社会主義国成立

 

ウクライナから避難する人達を見て心が騒ぎました!

子供も老人も妊婦も、病人も、そして車椅子の人もいます。

みんな着の身着のままです。

彼女も、こんなだったのかなぁと胸が痛くなります。

 

ついこの間まで、戦争なんて他人事だった のに

実際に、ウクライナで戦争が起こって

本当に悲惨な事なんだと、改めて思い知らされました。

 

私がお会いした時には、日本支社長の奥様で

何も聞かされなければ、難民だったなんて

思いもよらなかったでしょう。

 

ウクライナも、今後どうなるのかは分かりません。

 

でも彼女の様に、難民になり苦労しても

成功して幸せになる人もいるので

希望を失わずに今を生きて欲しいと言葉をかけたい。

 

私もささやかですが

coopのウクライナ緊急支援募金に寄付をしました。

毎週食料を頼んでいるので、一緒に寄付も出来ます。

 

あなたも機会があれば、ぜひ寄付をお願いしますm(__)m

 

ウクライナへエールを送ります!

ソ連が一刻も早く、ウクライナから撤退して

戦争が終わることを切に祈ります。

 

どうか無事でいて下さい。

ウクライナの人々よ頑張れ!